対談なので、リキんで読む必要も無いと思うけれど、論理や知性に対して、情緒の大切さを自由に議論している。情緒は、自分が本当に信じるところ、それは論理や知性によっては説得し得ないのだと。ただ、社会の現状を見ると、より論理的であること、より知性的であることが重んじられて、感情的であることはアホだ、みたいな風潮が無いでも無い。そうすると、人間はますます納得できない、腑に落ちない状況で生きることに、なりませんか?
「数学は知性の世界だけに存在しうると考えてきたのですが、そうでないということが、ごく近ごろわかったのですけれども、そういう意味にみながとっているかどうか。数学は知性の世界だけに存在しえないということが、四千年以上も数学をしてきて、人ははじめてわかったのです。数学は知性の世界だけに存在しうるものではない、何を入れなければ成り立たぬかというと、感情を入れなければ成り立たぬ。」(岡氏)
数学基礎論の分野で、お互いに矛盾する前提で組み立てた2つの論理が、両方とも矛盾無く成立することを証明した論文を挙げながら、数学のような世界でも、論理の積み上げによって納得するわけではなく、最終的には、これは正しいと信じるから(感情的に)納得するのだ、と数学者の岡潔が指摘している。
「エントロピーという一つの量があるでしょう。ところがこれを、熱現象を理解するための或る物理的量としてはっきり受取ることが、僕らには非常にむつかしい。言葉として受取ってしまうのです。そうするとこの宇宙はだんだん絶滅していくとか、デグレードしていくとか、そういうふうに意味をとるでしょう。ところが熱力学というものはそういうことに全く関係がない。それを宇宙全体、人類の全歴史まで含めたもののなかに拡張するなどという意図はないわけです。物理学者の言う非人間的な量に人間的な意味をつけたがる、・・・(中略)・・・だから私はそこにいまの日本の文化の大きな問題があるのではないかと思います。ということは、科学というものの性質をはっきりのみ込んでいないということで、これを認識させる教育をしなければいかんのです。科学は何を言い、何を言わないかという。」(小林氏)
あるある、物理学の法則から人生論を展開しちゃうパターン。冗談でやるぶんには、面白いけど。
ところで最近やたらと、科学的に安全、とか聞くじゃないですか。その“科学的”って、どういう科学的なのだろう?
小林秀雄×岡潔 『人間の建設』(新潮文庫)