「核のごみ」について、最近、大きな動きがありました。ひとつは、中国電力が山口県上関町で使用済み核燃料の中間貯蔵施設建設に向けた調査を開始したこと。もうひとつは、長崎県対馬市で原子力発電所から出る高レベル放射性廃棄物(核のごみ)の最終処分場選定に向けた「文献調査」の受入れの是非を巡る検討が進んでいること。どちらも賛成派、反対派が鋭く対立する中でじわじわと進行しているのでしょう。8月24日から始まった東京電力福島第一原子力発電所の処理水の海洋放出に関する関係者の対応や地元住民の反応などを見ると、今後の展開がスムーズに進むとは思えません。

「核のごみ」とは、原子力発電の使用済み核燃料から生み出される「高レベル放射性廃棄物」のことです。廃棄物ですが、いわゆる廃掃法(「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」)の適用からは除外されていて、「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」で、“地下300メートル以上の政令で定める深さの地層において”処分すると規定されています。それでは、高レベルじゃない放射性廃棄物はどうよ、というと、とくに決まりは無いみたい。えー、そんなアバウトで良いの?と驚き呆れる気持ちはとりあえず脇に置いて、この法律が制定されたのは2000年のことです。原発を稼働するための原子力基本法は、1955年制定です。原子力発電所と放射性廃棄物の最終処分場とは、セットで考えるべきなでは?というのが普通の感覚ですが、それは“今流の”感覚なのです。かつては、そのうちなんとかなるだろう、で“原発、作ってみた”、というのが日本に限らず世界共通の動向でした。その結果、日本では2022年3月末時点でガラス固化体にして26,000本分の高レベル放射性廃棄物が廃棄処分を待っています。「核のごみ」処理の制度も作ってみたけれど、最終処分場の確保については、未だほぼほぼどの国も苦労している、というのが現状です。高レベル放射性廃棄物に関しては、“私たちみんなの”環境が破壊される危険を度外視した時代遅れの法制度で、今日も世界が辛うじてまわっている、ということは覚えておきましょう。

ところで「核のごみ」を地層処分するとは、そもそもどうよ?法律に書いてあると、それが正しい、と思うかもしれません。地層処分は、高レベル放射性廃棄物の適正処分について様々なアプローチを科学的に検討した結果、消去法で導かれた解決案に過ぎない、科学は地層処分を積極的には支持しない、というのが、この本の説明です。法律にはそのあたりの事情が書いてないので、まるで科学が地層処分を全面支持しているかのように見えてしまいます。法律の危険なところです。

フランスも地層処分を採用していますが、科学的に地層処分が適切ではないことが判明したり、他により最適な解決手段が見つかったりした場合に、地層処分をやめることができるよう、処理方法だけでなく、法制度についても“可逆性”、つまり、後戻りできる余地を残しています。

「しかし、核のごみ処分に対する人びとの心配や懸念、批判の多くは、後戻りできない状況でいまだかつてない遠大な取り組みをすることに対して向けられていますから、取り組みを進める側の政府や関係機関、専門家たちが、「可逆性」を条件として取り組むことが、それへの答えになるとフランスでは考えられたのです。」(39ページ)

原子力の利用については、何万年という時間感覚での検討が必要です。残念ながら現在の科学では十分な知見が不足しています。原子力発電から利益を受ける人、苦難を受ける人が地域によっても世代によっても偏っています。ひとたび事故が起きると、被害が甚大です。わからな過ぎることが多く、にもかかわらず、ひとつの選択をする責任が重過ぎるなら、せめて選択に可逆性、取り消したり、あと戻りしたりできる機会を確保しておくべきでしょう。

フランスのような法制度を作るには、政治にも「可逆性」が求められるのでは、と思います。法律で一度、決めてしまえば未来永劫変わらない、という硬直的な考え方のもとでは、多数決原理への執着が過剰になるのでは、と思います。

あ、そうそう、ちなみにカナダは、“核のごみ”を300年間は人間の管理下に置く、と決めているそうです。300年も責任持つなんて、凄いなあ、と思います。できるのか?しかし、先日読んだ、「サピエンス減少」(岩波新書)は、人類絶滅まで、あと300年でした。300年後は、人間が居ないから、とくに考えなくても大丈夫ってことかー、とは穿ち過ぎですよね。

今田高俊・寿楽浩太・中澤高師『核のごみをどうするか』(岩波ジュニア新書 2023年)