私の誤解ですが、高校数学は直感的で、そこを論理で詰めるのが大学からの数学だと、長いこと思っていました。直感は大切だけれど、時にアテにならなくて、とくに無限のような、人間の常識的感覚があてはまらない領域は、論理を積み上げて理解する必要がある、と。

ただ、数学を専門にしている人からは、直感と論理と、場合に応じてうまく使い分ける必要があるよね、みたいな発言を聞く機会も多くて、どのような意味なのかと、気にしながら、偶然、読んだ本です。

ハミルトンによる複素数の定義の演習の章がありました。演習を通して、複素数の実在性を実感できるか、という問いかけです。定義された集合が、さまざまな演算規則について、群をなすとか、体をなすとか、そういうことを確認しながら、最終的に矛盾が無いですね、ではそれを複素数と呼びましょう、みたいな。まあ、本を読みながら、順番に演算すれば、そういうことなのだけれど、それと複素数、とくに虚数が実在するか、実感できるか、というのは、どうも別なんじゃないかな、という気がしました。

いや、こういう概念の導入の仕方に習熟した人にとっては、あるいは虚数は、すごく実感を伴っているのかもしれません。たぶん、私でも、この証明手続きを100回繰り返せば、「あぁ、複素数ね、当たり前だよね、あるに決まってるっしょ」となる、かもしれない。論理による理解というのは、習熟者と未習熟者、専門家と素人との違いを生むかもしれないし、繰り返すことで理解したつもりになる危うさを含むかもしれない。

そもそも実数の実在性にしても、π(円周率)とかe(ネイピア数)になると怪しいわけで、解析学の知識に頼る必要がある。数学的な見方によって、人間の感じ方の揺らぎが見える。両者の違いを、わきまえる必要がある。これは、世界をどのように知るか、ということで、そのことと、知った結果を受け容れる、理解として落とし込む、腑に落ちる、納得する、は、別のことなのだろう。

矢崎 成俊『大学数学の教則』 (ちくま学芸文庫2022年)